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​屋号「源兵衛」の由来

先祖の木村与惣吉は、青海(せいかい)源兵衛の弟子の一人として漆芸を学びました。与惣吉は、尊敬する師匠 青海源兵衛が「江戸の変わり塗の技を大切に守っていきたい」という気持ちに感動し、師匠の心を受け継ぐことを決心、独立して創業しました。

​初代 木村与惣吉の「技」と「心」は、二代目 良之進、三代目 良蔵、四代目 昭良、五代目 昭文へと伝承されてきました。そこで、屋号「源兵衛」と決め、伝統を守るよう日々努力しています。

津軽塗と源兵衛

津軽の漆工芸は、弘前藩が成立したころ、武具、馬具、調度品などに漆を塗ることから始まりました。質の良い漆工品を望んだ四台藩主 信枚(のぶひら)(1646〜1710)は、多くの技術者を新規に召し抱えました。この中に、塗師  池田源兵衛がいました。

池田源兵衛は、小浜藩(福井県)の塗師です。小浜藩には「若狭塗」と呼ばれる漆芸がありました。若狭では「しもふり塗」「むしくい塗」「ななこ塗」など変わり塗が塗られていました。同じ頃、金沢藩でも変わり塗技法が行われていました。

小浜藩や金沢藩の塗師たちと同じような技を見つけて津軽へ招かれた池田源兵衛は、さらに新しい江戸の漆工技術を習得することを望み、貞亨二年(1685)五月、江戸の蒔絵師 青海太郎左衛門のところへ入門しました。残念なことに、池田源兵衛は、新しい技を弘前藩へ導入することもなく、翌年2月に江戸の鷹匠町で病死しました。源兵衛には弦太朗という子がいました。

元禄十年(1697)、源兵衛の子 源太郎は青海方へ入門し、江戸で修行することになりました。源太郎は江戸での修行中に、師匠の青海太郎左衛門から江戸の塗り技法全般を教わり、さらに青海家秘法の「青海波塗(せいかいはぬり)」も伝授されて、宝永元年(1716)弘前へ帰り、名を「源兵衛」と改め仕事に励みました。

日本最高・最先端の漆芸といえる江戸の漆塗技法は、源太郎とともに津軽地方へすんなり導入され、定着しませんでした。源兵衛の技が認められる機会が来たのは、正徳四年(1714)のことでした。

藩主へ差し上げる「しもふり塗に青貝を入れた たばこ入れ」を塗るようにという命令に近い依頼が池田源兵衛にきました。この後、正徳六年(1716)になると、五代藩主 信寿(のぶひさ)(1669〜1746)は、源兵衛の技法の素晴らしさを認め、弘前で製作した漆器を江戸で使い、おみやげの品の漆器を源兵衛に塗らせるようになりました。このようにして、江戸の変わり塗が津軽地方に定着することになりました。

亨保二年(1717)、池田源兵衛父子の師匠であり、江戸の名工として知られた青海太郎左衛門が亡くなり、青海家を相続する者がいなくなりました。そこで、源兵衛は青海を襲名し、家名と技を大切に守ることになりました。変わり塗技法を津軽地方へ導入したのは、源兵衛の子 源太郎(二代目源兵衛)です。いま津軽地方の漆工技法の主流をしめているともいえる変わり塗(鞘塗)は、江戸時代の日本の最高・最先端の江戸漆芸の流れを汲む技法です。この技法が残っているということを誇りに思っています。

​                         「源兵衛」由来文  

                          弘前大学名誉教授 佐藤武司

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